2012年05月15日

もうひとつのせんそう(終)

わたくしも今年で41歳、歳はとりたくないですが、こればかりは逆らえない。
記憶は砂時計の砂のように、さらさらと流れ落ちてしまいます。
忘れる前に、じいちゃんの記録を仕上げていきたいと思います。

【行軍】
波のように押しては引きを両軍は繰り返しました。しかし、圧倒的物量の前に徐々に後退する日が増え始めました。
補給はすでに無く、弾薬も無い。 しかしハラは減る。じいちゃん達が食べたモノは『野生のバナナ』でした。
『あれはな、ものすごく甘いんだ。 でも気をつけねぇと種を噛んじまう』少し間を空けながら
『もう一回、あのバナナが食いたいなぁ』
じいちゃんはバナナが大好きでした。でも、本当に好きなのは野性のバナナだったなんて知ったのは
わたくしが30歳を過ぎてからでした。もう少し早く言ってくれたら、現地のバナナを手に入れられたかも(無理か?)

恐らく、押し引きをする間に仲間はひとり、またひとり、と倒れていったのだと思います。でも、じいちゃんは決して話しませんでした。
生きて帰った人の事、その人が生きていた時の、そういった状況の話ししかしませんでした。
話したくない、話せない、どれだけ辛かったのか、わたくしは想像するしかありませんでした。
親友がマラリアにかかり高熱を出し動けなくなりました。野戦病院はけが人とマラリアの患者でごった返していたそうです。
『あんなに暑い中でブルブル震えてなぁ。毛布かけて抱いてやって・・・』そう言いながら、じいちゃんは涙を流していました。
わたくし、ふと気が付き質問しました。『じいちゃんは大丈夫だったの?』
『そんな訳あるかぁい。俺もかかったよ。ありゃ寒いってより痛い・・・いや違うなぁ何って言やぁいいんだろうな・・・』
マラリアの説明を身振り手振りで説明してくれましたが、その後、ばぁちゃんから聞いた話しでは、引き上げてきた後もマラリアで苦しんだそうです。入院する前、まだ自宅に居た頃、昼寝といえば真夏でも分厚い毛布を首までかけていました。
子供だったわたくしは『じいちゃん暑くないのぉ?』と質問し
『これが気持ちいいんだよ』と昼寝をしていたじいちゃん。今、思うと『あの時』の習慣だったのかも知れません。

話しが逸れました。親友を泣く泣く野戦病院に預け、自分は前線へ。もはや弾丸は底を尽きかけて、空腹と疲労で皆フラフラだったそうです。
『三日三晩だぞ。三日食わず、寝ずだぞ。わかるか?』鬼気迫る勢いでじいちゃんは話してくれます。
弾丸は完全に底を尽きました。ただ、幸運?な事に将校は特攻や自害を強要せず投降の道を選んでくれました。
彼の選択はとても勇気のいる選択だったと思います。一軍人として、敵の軍門に下るわけですから。
しかし、彼のおかげでじいちゃんは帰ってこられたのですから、わたくしは名も知らぬ将校を尊敬し感謝します。
そして、元基地だった場所に、収容所が出来上がりました。野戦病院にいた親友も無事?収容所で合う事ができました。
しかし、収容所に入ってから、じいちゃんはマラリアにかかってしまいました。
『でもなぁ逃げてる時より、収容所に居る方が食いもんが貰えたからましだな。ハラ減って逃げ回ってるよりいい。』
それからすぐに戦争が終わった事を知らされました。『実感は無かったな、ずうっと戦争やってたからな。今さら終わったって言ったて、よくわからねぇんだよ。』なんてこと無い普通の職人だったじいちゃんの普通では無い部分は、ようやく終わりになりました。
半年ほど、その島に滞在し(正確には帰れなかった)ようやく復員の目処が立ち日本に帰ってこれました。
『帰ってきたら周りに何にも無いんでたまげたぜぇ、掘っ立て小屋しかなくってなぁ、新幹線なんて無かったんだ』
笑いながら話しましたが、じいちゃん新幹線はわたくしが小学校の時、開通したんだよ。
ようやく普通の職人にもどり、戦後の復興に携わり、ヘビースモーカーが災いして、晩年は肺気腫との闘いでした。

恩給?は兵隊として働いた期間が半年たらず、もらえなかったそうですが『別に金もらうために行ったわけじゃねぇからなぁ』
なんて言ってましたが真意はわかりません。

戦争が終わって何十年かして、こんなモノが届きました。
もうひとつのせんそう(終)
わたくしは思わず『こんなモノのためにじいちゃんは死ぬ思いをしたんじゃ無い!!』と憤慨してしまいましたが、じいちゃんは穏やかな目をしながら『そんな事、言うもんじゃないよ。お国だって大変なんだよ。わざわざ届けてくれたんだ、ありがたく頂こうじゃねぇか』とわたくしに言いました。
無事に帰り、今ここに居る。
じいちゃんにもっといろいろ、きちんと聞けばよかった。今は本当に後悔しています

4月15日正午 じいちゃんは雲になり、夜には星になりました。

もし、おじいちゃん おばあちゃんが御存命なら『また昔の話しだよ!!』って聞き流さず、少しでいいです、聞いてあげて下さい。
ふたりがいなくなったら、聞きたくても聞けない、とても大事な話しです。

長文・駄文で大変お見苦しいですが『もうひとつのせんそう』はおしまいです。
亡くなる直前、ほとんど話せなかったですが、目を薄っすらと明け、力なく頷いていたじいちゃんをずっと忘れません。

ありがとう おつかれさまでした




皆様の幸せな時間がいつまでも続きますように

ではでは




Posted by てっぽさん at 23:03│Comments(2)
この記事へのコメント
はじめまして。
すっかりスネークさん、、、いや、てっぽさんのブログに魅入られてしまいました(笑)

うちのオヤジも恩給もらえませんでした。歳をごまかして志願したせいで年金ももらえませんでした。
オヤジは、海軍特別年少兵として14歳で志願し、終戦は伏龍特攻隊員として千葉の海岸で迎えたそうです。同期48人のうち、生きて終戦を迎えたのは3人。当時17歳です。

今の平和の有り難みを知るためにも、身近な歴史証言は伝えていきたいですね。
Posted by ビスコ at 2012年05月21日 07:24
ビスコ様 コメントありがとうございます

こんなオカシな場所にようこそお越し下さいました。
お父様からのお話しですと、正確できちんとした内容でしょう。
わたくしの方はじぃちゃんが気が向いた時に朗々と語るのを、翻訳(笑)しながらだったので苦労しました。
教科書にのらない、決して、格好良く無く現実にあった事。
伝えたいと言うより、この趣味を始めるまで、忘れていた自分への反省から始めました。
思い出しながら、噛み締めながら書いてましたが、わたくしは、逆さにしても出てきません。
これをきっかけに、どなたかが続いてくれる事を祈ります。
ちょっと、マジメにコメントしてみたり・・・テヘッ
Posted by てっぽさん at 2012年05月21日 08:14
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